ドイツのアレクサンダー・レッスン
アレクサンダー・テクニークのレッスンに行ってから、予定していたチェロの先生に連絡し、新しい指導者を紹介してもらうことをためらっていました。
僕は当時チェロを弾いていると背中が張ってきて痛くなっていたのですが、アレクサンダー・テクニークのレッスンを受けてそれがなくなっていたからです。
またチェロを弾くと張ってくるのかな…?
そう思うとチェロを弾くこと自体ちょっと置いておきたくて、まず身体の変化を見てみようと思いました。
アレクサンダー教師のヘルムートがセミ・スパインと呼ばれる休息法を教えてくれたので、僕は今までチェロを弾いていた時間を身体を観察する時間に充てました。
セミ・スパインは仰向けになって両膝を立て、両手をお腹と骨盤の間くらいに置くポーズです。頭はタオルなんかで少しだけ上げます。
だらんとするよりちょっと張りがあるような休息で、眠くならないよう4つの観察を順に頭に巡らせていきます。
まず、地面についている自分の身体の部分を思い出すこと。
次に背骨が長くなっていくこと。
そして呼吸を思い出すこと。
最後に、頭からつま先までこわばっているところをスキャンして、見つけたらそれを手放すこと。
セミ・スパインをしていると、自分のあらゆるところがこわばっているのに気付きます。
それを見つけるたびに、しめしめ感を持って手放す。
こんなに自分の身体がコントロールされてなかったことも、身体を開放することが心地よいことも知らなかったので、自分にえらくラッキーな事が飛び込んできたものだと思い、それと同時に頭にもたげてきたものがありました。
なんで苦しんで楽器にしがみついていたんだっけ?
最初は好きとか楽しいとか感じていたのに、いつの間にかこうしたいとかこうなりたいとか、人よりどうなりたいとか誰かのようになりたいとか、ごちゃごちゃしたモノになってしまった。
もともとがむしゃらにやるタチではなかったのに、いつの間にか自分にブレーキがかからなくなり、身体に起こっていることなんか見向きもしなくなったことが不思議に思えてきます。
身体より音楽、それを考える頭を優先し、まるで身体が劣った鈍くさいもので、思考が高尚なものとして扱っていたようです。
それが今、身体が心地よいことは、否定するところのない完全にいいもの、価値があることを実感しています。
このままがむしゃらに楽器を弾くよりも、身体を楽なものにしてあげたほうが可能性がある気がする…。
何より思うのは、アレクサンダー・テクニークを知らなかった頃の身体に戻りたくない。
何が起こるかわからない明日が待ち遠しいって、いつ以来だっけ?小学生かな?
そういう思いが湧いてくるので次第にチェロをケースから出さなくなり、毎日ワクワクしながら学校に通い、友人やアンヤと会い、ライプツィヒを見て回る日々を過ごしていました。
教会でのヘルムート先生のレッスンは毎回イスを使って行っていました。
後ろに持たれず、まっすぐ座った状態から、坐骨を支点に前傾したりまっすぐに戻ったりします。
先生は頭の後ろや頬骨、頭蓋のへりに当たる部分ですが、そこに優しく触れて、分かるか分からないかくらいの力で誘導していきます。
誘導と言っても、押されたり引かれたりするものではなく、ニオイがする方へ行ってみようとするように、ささやかな手がかりを頼りに自分で動いていく程度です。
もう2ヶ月もレッスンの前半はこの緩いおじぎの繰り返しで、これをやる意図が何か分からないけど、学習者としてなんとなく意図を聞いてはいけない気がしていました。
それでこれは精神統一か感覚を鋭くするのか、自分で推測していたのですが、アクションとしては単純な取り組みに次第に飽きてきました…。
しかしある時、
あれ?
自分が知らないうちに立っています。
イスに座って前後に頭を揺らしていただけなのに…。
ヘルムートの誘導が、優しいけどちょっとトリッキーな感じになっていっているのには気付いていましたが、立つための踏ん張りをした憶えがないのです。
ほこりが風に吹かれるように、舞い上がり、重さを感じずに立っています。
頭の重さに導かれて、そこに流れ着いたような。
自分の体重がストーンと足まで伝わっているのを感じます。
自分が大きくて太い筒になって、その中を上下に柔らかいものが行ったり来たりしている感覚。
これが余計なことをやめるための学習…これが日常で起こることになったら、どんなに楽か!
僕は19歳くらいから、朝起きる時、体が重くて仕方がなかったのです。
砂でも食べて、その重さが体内に残っているかのような…。
それは後々、日中の楽器を弾くときの体の捻じれから来る負担だと分かっていきますが、この時点ではまだそれに結びついていません。
これが自分でできるようになったら、人生思いのまま!
ヘルムートは僕の気付きを捉えていたのだと思いますが、そこで説明したり、諭したりすることなく、「そうそう」という感じでただそこにいるのでした。
その、ただそこにいる、いう感じも自分でしたい!
どうしてヘルムートは静かなのにエネルギーを感じたり、柔らかいのにしっかりしているように見えるんだろう?
何か技巧的なことをしているようにも見えないし、戦略的な意図も見えない…、よく見せようとか、賢く見せようとか…。
なぜ自然に見えるんだろう?
自然な人間になるには、どうしたらいいんだろう?
この頃から、自分の中にアレクサンダー・テクニーク教師になるという選択肢が生まれました。
僕が実際に教師になったのは、この日から10年は経ってから。まだまだ先の事です。