ライプツィヒに移る(読了目安:2分)

青い空にビル2つ。一つは煙を上げていて、突然もう一つに飛行機が突っ込む。

2001年9月11日から連日、ニューヨーク・テロの映像が報道される中、

「ホントに行くの?」

と周りから言われながらも、それはこれ、変更の考えもなし、あっという間にドイツ行きの日がやってきました。

早朝から関西空港でぶらぶらしながら、のんびりと飛行機を待ち、ガイドブックに載っている次に住む街ライプツィヒの項目を読んだり、換金したりしていました。

前回は海外自体初めて、空港も飛行機もおぼつかなくて緊張していたのですが、今回は気楽です。

ライプツィヒ、そこにはメンデルスゾーン音楽大学があります。

ワイマールでのチェロの先生より、その大学出身の後輩チェリストを次の指導者として紹介してもらえることになっていました。

事前にライプツィヒを調べていると大体どの文献にも出てくるのは、この町の月曜デモがベルリンの壁撤去のきっかけを作りドイツ統一まで至らしめた、ということ。

ワイマールは強制収容所でライプツィヒは東西統一、どうもドイツにまつわるネタは政治動乱が真っ先で、あまり華やかな気分で訪れられないみたいです。

ライプツィヒはワイマールよりさらに東、旧東ドイツで二番目規模だった都市で、ちょっと足を伸ばすとドレスデンがあり、その向こうはもうチェコです。

その町にもやはり国立大学があり、名前はそのままストレートにライプツィヒ大学、東ドイツ時代は「カール·マルクス大学」と言いました。

僕の親父は学生紛争時代の京都の大学でマルクス経済学を専攻していたので、その大学の名前だけで何やら感慨深くなっていましたが、まあ自分には関係のないことで…。

ワイマール滞在中に、その町ゆかりの歴史人物をチェックするのはなかなか楽しく、ワイマールの代表格はゲーテ、フランツ·リスト、シラーなどで、あちこちにモニュメントやレリーフがありました。

今度のライプツィヒはなんといってもトーマス教会にいたバッハ、ワーグナーそしてゲヴァントハウス管弦楽団など音楽との関係が深く、またメンデルスゾーン音楽大学は滝廉太郎の留学先でもありました。

そのせっかくの音楽都市で、僕は音楽に見切りをつけることになります。

夜明け。ヨーロッパ随一のハブ空港、フランクフルトに到着しました。

前回は英語もおぼつかない状態で空港から中央駅へ、そしてワイマールへ一人でたどり着くのは大変でした。

今回は経験済みなので気楽です。ドイツの新幹線、ICEに乗り込み朝の様子を眺めながら3時間、ザクセン州へ入りライプツィヒ到着のアナウンスが。

ライプツィヒの中央駅は当時ヨーロッパ最大規模(後にどこかに抜かれた)。駅横のタワーマンション(この建物は後に飛び降り自殺が頻発するいわく付きのものだと知った)が遠くから見えてくると、周りが次第に廃墟化した工場に囲まれていき、まもなく終着しました。

この町はワイマールのような牧歌的な雰囲気とはガラッと変わって、暗くいかめしい印象です。

どんよりした雲空、すすで汚れた中央駅にはカラスの大群が。人も寡黙で暗い。

バットマンのゴッサムシティみたいだ。僕はそんな退廃的な感じは嫌いではなかったのでワクワクして、とりあえずインビスで軽食を買って、予約していたホテルに向かいました。

ドイツには自動販売機がほとんどありません。というかあってもほぼ間違いなく壊れていてお金を入れても商品が出てきません(お金も帰ってこない)。

怪しい英語で怖い顔した売り子と対面して物を買うしかないので、ワイマールにいた最初の頃はかなり勇気がいりました。

しかしむっつりした表情のドイツ人でも案外気さくな人はいるし、この後も幾度も親切にしてもらうことになります。

ホテルのフロントマンはさすがに愛想はよく、とりあえず荷物と身体を落ち着けて、入学する手続きを済ませたヘルダー研究所ドイツ語学校を見に行ってみる事にしました。​

ライプツィヒ中央駅の北側に5分ほど歩くと、ドイツ語学校、ヘルダー・インスティテュートがあります。

渡独後すぐに新入生の面談があり、初めて校内に入りました。

コンクリートの箱、青い鉄の扉、中小企業のオフィスみたいな感じです。そこでは様々な人種の入学生が面談を待っていて、アジア系もいるけど中国語が飛び交っていて、どうやら日本人はいないようです。

日本で著名なドイツ語学校はなんと言ってもゲーテ・ドイツ語学校(ドイツではゴエチェと発音する)。日本人はそちらに通うのが一般的です。

ゲーテは日本語対応完備と謳われてますがヘルダー・ドイツ語学校なんて日本ではほとんど知られておらず、そんな親切なサービスは皆無です。

まあそのくらいハードな方が自分のためだろう、と頭の中で自分を慰めながら待っていると、名前が呼ばれました。

部屋に入ると、3人ほどの女性が会議用机に並んでいました。

かんたんな英語で必要な書類と手続きの手順をガイドされましたが、向こうも忙しいらしく手早い説明でハイ次、みたいに内容を確認するまもなく部屋から出されてしまいました。

英語とドイツ語ミックスの書類…。どうやらこれを解読しないと住む場所も決まらないようです。

受け取ったものの中に学生証があります。書類によると、どうやらこれを使って、

外国人局で学生ビザ(仮)の発行

学生生協で学生寮を決定

住所が決まったら銀行で口座を開設

口座から引き落としできるようになるので学生用健康保険が組める

それが済んだら学校に通える

まで自分でやらなければならないようです。

え?自分でやるの?と日本でだったら言いそうですが…。

問答無用、何であろうがもう自分でやるしかありません。

まずは中央からやや東に離れた住宅街にある外国人局に向かいました。

住宅街なのにその外国人局の周囲には異様な空気が…建物からあふれるアラブ系と見られる人たちの不機嫌そうな様子に、ハッと気づきました。

ニューヨーク・テロの直後、ニュースではアメリカがアルカイダに復讐を誓っている真っ最中なのでした。

日本人が他者をどのように差別しているか、いかに差別的かは一旦外に出てみるとよく分かる、これは結構あちこちで言われていますが、僕も同感です。

僕はモラトリアム生活をエンジョイするためにドイツに来たのですが、アレクサンダー・テクニークとの出会いがあってもなくても、このドイツ滞在は僕の人生を相当変えたと思います。

その一つが「グローバリゼーション」、境界を超えた感覚や視点を持ったことが大きいと思います。

それは難しいことを考察したから、とかでは身につくものではなく、身を持って状況に晒されたからです。

あとあといろんな局面で知っていくことになるのですが、(当時)ライプツィヒはネオ・ナチズムの潮流の拠点の町の一つであり、滞在中、ネオナチの集会がある週末になると我々外国人は外出しないように学校から勧告を受けました。

僕の勘で飛び込む性質は、見事「常識ではわざわざ選ばない」町へ住むという大当たりのクジを引いてしまいました。このベタな醤油顔で!

外国人局とは外国人がドイツにこの先も住めるかどうか判定を下される場所。

ニューヨーク・テロをアルカイダが我々の聖戦と声明したことで、とんでもない数の何にも関係ない人たちが日常生活を脅かされることになったのを、僕はのこのこ外国人局で目の当たりにするのでした。

さて、そちらで声を掛けた人との出会いはまた思わぬところへ僕を連れてゆくのですが、それはまた今度。