初めてアレクサンダーテクニークを耳にする(読了目安:5分)
ドイツで最初に住んだのはワイマールという小都市でした。
ワイマールって聞いたことありますか?大体はワイマール憲法を思い浮かべるのではないでしょうか?
僕もそうでした。そんな所に行くことになったのは、22歳のとき付き人をやっていたチェロの先生から
「君、退屈そうだよ。ものすごく上手い先生紹介してあげるからドイツ行ってきなよ」
と言われ、
「では行ってきます!」
とあっさり決めたからです。
当時、僕は「日本はダサい。日本人はもっとダサい。日本は世界の田舎」
と思っていました(今はそうではありません)。
海外ならどこでも行きたかったので、すぐに飛びつきました。
さあ、チェロケースの隙間に衣服を詰め込んで、あっさり出発!
今思うと、むこうの生活はどうなるとか、お金は足りるのかとか、どんなところだとか、何も調べずよくそんな事したかと思います。
でも、その時は急展開にワクワクしかなくて、何も考えずに移り住みました。
しかし、先生はあまりに軽率な僕にと、現地での世話人を案じたのです。
その世話人が、当時ワイマール州立歌劇場でソプラノ歌手のレギュラーであった、木村ノリコさんでした。
ノリコさんは駅で僕を迎えてくれた後、僕を車に乗せて学生生協に向かいました。
中央はずれのマンハイム通りの学生寮の客室を取っておいてくれたのです。
その客室は学生の家族が滞在するためのもので、こういった宿泊方法があると知ったのも後日。
ドイツは留学生を積極的に受け入れており、家族が遠方から来ることもよくあるので、このような設備があるのです。
1ヶ月300マルク(マルク!まだマルクだったときです)を支払い、鍵を受け取って寮に向かい、荷物を降ろしました。
1マルク60円だったので1万8千円ほど。キッチンがついていて自炊ですが安いのに驚きました。日本で普通に暮らすより安くない?
「眠くないのなら、起きていたほうがいいですよ。時差が早く回復するので」
とノリコさんが言うので、はーい、そのままお出かけへ。
ワイマール城へ向かいました。
ワイマールには城があり、今は美術館になっていますが、クラナッハやデューラーなどが展示されていました。
螺旋階段を登りながらアートの話をしつつ、ドイツへ来た実感がちょっとずす湧いてきました。
ひと通り見たあと、マルクト・プラッツのカフェへ。ノリコさんは有名人らしく、よく声をかけられます。
ノリコさんはまだドイツが統合されていない頃、東ドイツだったこのワイマールに一人で来た事を話して聞かせてくれました。
ノリコさんは日本の大学から奨学金を受けてドイツに来たそうですが、当時ワイマールは共産圏で、誰もが止めに入ったそうです。
それでも決断した理由までは語りませんでしたが、まだソビエト連邦がある時代で共産圏にわざわざ留学するのも、その頃の共産圏の音楽レベルには未知数のものがあり、ある種の魅力があったのかもしれません。
その頃の印象は、まず街灯がなく町は暗く、大人は不機嫌そうだった。買えるものが限られていたり、ストが頻繁に起こりインフラは不安定だった。
子どもたちは小さい頃から哲学を論じたり、クラシック音楽の内容について突っ込んだ意見があって議論したり、他の分野ででもおしなべて早熟であったとのことでした。
よく物は盗まれたけれど、重犯罪は今より少なかったそうです。
ノリコさんは特に苦労話をしませんでしたが、大変な生活だったのが容易に想像できました。
日本人の学生が歴史ある歌劇場の専属ソプラノ歌手にまで登りつめた、その努力までは想像できませんが…。
ノリコさんはひと通り話し終えて、僕にあと何が必要かを尋ねました。
僕は自転車を手に入れたいことと、スーパーと薬局の場所と答え、あとドイツ語を習う講座はないかと尋ねました。
大学関連の施設の講座に何かあるかもしれない、その場所はまた行きましょう。と、そして、
「そこでやっているアレクサンダー・テクニークのレッスンを受けようと思っているの。歳を重ねると、発声に衰えが出てきているのが気になって」
アレクサンダー·テクニーク?
なんじゃそりゃ?
僕が初めてアレクサンダー・テクニークの名前を聞いたのは、その時でした。