小地球のドイツ語教室
ヘルダードイツ語学校の教室は小さく、クラスには生徒がぎゅうぎゅうに詰められスタートしました。
人数の多い順に、
中国から4人♂♂♀♀、モロッコからも4人♂♂♂♂、キプロスから2人♂♀
あとは一人ずつ、
ブラジル♀
フランス♀
シリア♂
韓国♀
モルドヴァ♀
カメルーン♀
そして僕、日本から。
入学前の簡単なテストでクラス分けされ、ここはどうやらドイツ語が全くできないどんじりクラス。
人数が多いので中国語とアラブ語が飛び交いますが、他の国でも別の言語が交錯します。
フランス人とモロッコ人とカメルーン人はフランス語で喋れますし、
モロッコ人とシリア人はアラブ語で喋れます。
シリア人とモルドヴァ人はルーマニア語で喋れるので、
フランス・カメルーン・モロッコ・シリア・モルドヴァは橋渡しでコミュニケーションが取れます。
*シリアはズーリアックと発音するのでシラクと書いてしまっていました。訂正済。
一方、日本と韓国と中国は漢字がある程度通じるので筆談ができます。簡単な英語と筆談でこれもコミュニケーションが取れてしまいます。
キプロスとブラジルは英語が堪能なので、これまた問題なくコミュニケーションが取れ、中国人留学生は英語が堪能なのでその輪に加われます。
これでクラスは自然と2つのコミュニケーション・グループができあがりました。
しかしそれも最初だけで僕はまもなく幾人かと、とりわけ仲良くなりました。言語より空気、ウマが合うかの方が勝るのでしょう。
互いにドイツ語が話せるようになっていくと、押しの弱い僕は、シャイなブラジル・モルドヴァの女の子らと、ユニークな医者のシリア人男性と、そして他のクラスのウクライナの16歳の男の子と仲良くなっていきました。
学校が無事始まると、計画では
①ワイマールのチェロの先生に新しい先生を紹介してもらう
②この町のアレクサンダー・テクニークの先生を見つけるでしたが、ふとしたことが運命の分かれ目になりました。
このところの目まぐるしい環境の変化に、自分の価値基準というか、選択基準が揺らいでいたのか、この順番をひっくり返してしまいました。
まず②のアレクサンダー・テクニークの先生を先に探したのです。
ネット上にあるドイツの教師リストには、この町には2人のアレクサンダー教師がいるとのことで、どちらにもメールを送りました。
すぐに一人から返事がありました。その人は町で一番大きな教会、ニコラス教会のキンダーガートゥン(付属幼稚園)で、空き時間にレッスンをしているというのです。
既にニコラス教会は知っていたし、行ってみるとそこではオルガンの演奏も無料で聴ける機会が頻繁にあるとのことで、その後はこの教会に頻繁に足を運ぶことになります。
ドイツ生活でハマった事のひとつは、教会のオルガンを聴きに行くことでした。これはもう体験しないと分からないし、知っている人はよく分かると思いますが、衝撃的というか圧倒的というか、知っている限りでは最も音楽の力を感じるものなのではないかと思います。
静まり返った大聖堂で最初の一音が来ると、ゼウスの稲妻に貫かれたように麻痺状態になってしまいます。ライブでデカい音を聴く機会もない昔の人には相当特別な体験・存在であったかと思います。
キリスト教が広まった理由のひとつは「音楽」、これは間違いないと思います。説法の内容ではなくて、オルガンで脳髄を仕留められる、と思ったほうが説得力があるくらい強力。
そんな背景と歴史の蓄積があるドイツなので、音楽活動に対する保護支援が盛んで手厚いのでしょう。
地域活性のネタ用にオマケ支援するくらいエンターテイメントと絡めないとその存在価値がよく分からない、引き気味の日本の音楽支援とはえらい違いなのですが、こういった事を知らないとしょうがないのかもしれません。
さて、アレクサンダー・テクニークは日本で体験してきましたが、レッスンを受け学習していくのは初めてです。先に当たった先生はヘルムート・レーンシューというピアニストでもある男性でした。
ドイツ語学校も慣れてくるとドイツ人との交流は先生くらいなもので、現地の人と話したくなります。
その方がドイツ語早く上達するよ!とクラスメートが言うもので、ドイツ語を勉強するモチベーションがさほどなかった僕もなんとなくあおられて、タンデムパートナーに興味を持ちました。
タンデムパートナーとは大学が推薦する語学交換プログラムの一種で、例えばドイツ語を学びたい日本人と日本語を学びたいドイツ人をカップリングするようなシステムです。
システムといっても掲示板があったり人づてに紹介してもらうような簡単でラフなもので、僕のケースも
「空いてる日本人探してるドイツ人の女の子がいるんだけど…」
と知人に声をかけられ、唐突に機会が回ってきたのでした。
さて、どんな人か会ってみるまでわかりません。気軽に受けたものの…
「おいおいやべーぞ。日本人を当たるドイツ女はださださアニメオタクに決まってんぞ」
となりのクラスで一緒につるむようになったウズベク人のバブアーがニヤニヤしながらそう言います。
「面白いから見に行こうぜ」
ウクライナ人のサーシャもそう言って、結局待ち合わせ場所のメンザ(学生カフェ)にふたりともついてきてしまいました。
ひとつ隔てたテーブルから
「絶対デブだぜ」
「そばかすだらけの醜いキモオタだろう」
などという茶化しを受けながら待っていましたが、約束の時間になってもそれらしき女性は現れません。
15分は経って、ふたりがなんだ面白くねえの、と飽き始めました。
すると、急いで入ってきたグラマーかつノーブルな金髪の女性がキョロキョロしだしました。
「おいおいまさか…」とふたりがつぶやくと、その女性は僕のところにまっすぐやってきて、
「ごめんなさい。あなたがシン?」
「そう。アンヤ・ウェーバー?はじめまして。」
彼女が僕のテーブルに座り、隣を見るとふたりとも口が開いたまま固まっているのでした。
ライプツィヒは暗い町だけど、ひとつ華々しいスペシャリティがあります。
メッセ、日本の幕張にあるような大規模な見本市開場があるのです。それは世界最古、1190年から続く見本市で、この町が交易交差点であり、中央駅がヨーロッパ最大だった理由でもあります。
滞在中、このメッセ開場に何度か訪れました。ライプツィガーメッセは特にブッフ(本)メッセが有名でそちらにも行きましたし、モーターファーラッド(バイク)メッセもバブアー、サーシャと連れ立って見に行きました。
僕のタンデムパートナー、アンヤは本当にイタリアのバイクメーカー、ドゥカティ専属のレースクィーンとしてそのメッセに呼ばれていました。
普段はライプツィヒ大学の学生で、日本にあこがれてヤパノロギー(日本文化学)を専攻し対日本の外交官になる勉強中でした。
僕はそんなスマートでセクシーなブロンドの子と毎週のように会うことになりました。
「ふざけんじゃねーよ」
バブアーはアンヤが僕のタンデムパートナーになってからしばらくの間、ふてくされていました。
彼はウズベクから来た小柄な男で、童顔だけど口ひげを生やし、ビッグマウスで素行が悪いので他の生徒に煙たがられていました。
彼は僕によく話しかけてきて(おそらく見た目がもろアジア+中国人ではないから)、僕はアニメに出てきそうな彼のキャラが面白いし、粗暴な態度だけど実は小心者だと分かり気にならず、彼とロシア語でしゃべるウクライナ人のサーシャとよくつるむようになりました。
バブアーはドイツ語学校でやる気のなさを全開に放っていました。なのになぜドイツに来たのか、話しているうちに次第に分かってきました。
彼の父親はプロレス興行主の豪商で、彼を兵役から逃れさせるために乗り気でない彼を無理やりドイツに留学させたのです。
それでいつもふてくされていたのですが、僕のようなパッとしないジャップがアンヤと毎週のように会うのが相当気に食わなかったようです。
「べつにシンのせいじゃねーし。俺は日本の女のほうがいい」
サーシャはバブアーのようにはふてくされて絡んではきません。
サーシャは狼のように鋭い顔で、190センチのひょろながい16歳の男の子。ウクライナでかなり官位の高いと思われる、警察に勤める父親が、将来を幸薄いウクライナよりもヨーロッパの西側で、と考え彼をドイツに送り込んだようです。
彼は美術関係の勉強をしようとしていましたが、スティーブ・ヴァイやジョン・マクラフリンが大好きなギター小僧で、僕がチェロを弾くと聞いて音楽の話をするようになり、次第に日本から持ってきたCDを貸したりしているうちに仲良くなりました。
バブアーとサーシャはロシア語で話すので彼らだけの会話は僕には全然分からないのですが、バブアーは僕をバカにしながら悪態をつき、サーシャが僕をかばっているようでした。
僕はアンヤに日本人を探しているドイツ人にはアニメオタクが多いのかと聞きました。
「確かにヤパノロギーの子たちってアニメが入り口だし、ちょっとコーミッシュな(妙な)人が多いわね」
今でこそアニメ文化もかなり世間のコンセンサスを得られるようになったけれど、20年前は日本でも世間の目はオタクに厳しかったし、ドイツでは相当変人扱いされただろうと思います。
「私はハヤオ(宮崎)は好きだけど、アニメファンってわけじゃない。日本の禅や侘び寂びに魅力を感じてるの」
といった様子で、アンヤと僕はお互いのカルチャーやサブカル、そして来年に迫っていた2002年日韓ワールドカップ、サッカーのことなどを話して過ごすのでした。モルドヴァという国をご存知ですか?
ヨーロッパ最貧国。
東ヨーロッパ、ルーマニアの東、ウクライナの手前にある小さな国です。
wikipedia:モルドヴァ
ドイツ語学校、僕の片方の隣はモルドヴァから来た女の子でした。
ジュリエット・ビノシュに似てるきれいな子だけど、口の上にうっすら産毛があってそれが濃いので、口ひげがあるように見えていました。
初対面でモルドヴァから来た、と言われ、全然その国のことを知らなかったので帰って調べました。
旧ソヴィエトで最貧地域。
ソヴィエト解体後ロシアに再侵入されている。
その子はオルガといってとてもシャイ。英語も殆どできないので他の人と全然喋りません。
隣の僕に慣れてくると、次第に僕になついてくるというか、えらく気に入られたようでベタベタするというかアベックっぽいそぶりをするので、
「おいシン、オルガいけるんちゃう?」
と僕のもう片方のシリア人ネジャッドが言ってきたりしました。
はは、違う。
彼女は身の上のことを僕にポツポツ話していて、他の生徒には内緒だと言ってかわいい男の子の写真を見せてくれたことがあるのです。
5歳くらい。金髪でネクタイとジャケット、笑顔。七五三みたいな記念写真。
オルガは27歳で、結婚していて本国に子供がいるのです。
子供をモルドヴァに置いてきているらしい。なぜかは分かりません。
何か理由があってオルガだけドイツに行かされているらしい。
彼女もバブアー同様自分の意志でドイツに来ているわけではなく、ドイツ語の勉強もやる気がなさそうです。
授業中、しょっちゅう僕の教科書に落書きをして気を引いたりしてきます。
その落書きは殆ど下ネタ。
なんでそんなのばっかり描くの?て聞くと、
「私が学校に行ってた頃、世の中にエロティックな情報は一切なかったし、テレビ女優もブラウスの一番上までボタンがきちっと留められているくらい、性的な描写が規制されていたの」
「でもセックスってものがあるって子どもたちの噂になるから、親に聞くんだけど、大人はそのことを子供が口にすると激怒するから聞けないの」
「だからみんなそれがどんなものか想像して教科書に落書きするの。私の教科書も友達のも、教科書はその類の落書きでいっぱいよ。」
「16歳でソヴィエトが崩壊して西洋文化が入ってきて、初めてメイク・ラブのシーンを見た。想像し続けたものとは全然違ったわ」
「そんなわけで、教科書はメイク・ラブの想像で埋め尽くすべきモノなのよ。」
僕はある時自分のチェロの演奏を録音して彼女に聴かせたことがあります。
彼女は2分ほどじっと耳を澄ませて聴き、イヤホンをおもむろに返し、真顔で
「バッハはもっとやさしく弾いて」
とだけ言ってそっぽを向いてしまいました。
僕の右に座るモルドヴァ人のオルガと左に座るシリア人のネジャッドは、ルーマニア語で話します。
ネジャッドがルーマニア語を話すと分かったオルガは途端に巻き舌のRがいっぱい出てくる言葉で爆発的に話し始めました。
僕がシリアとモルドヴァが同じ言語で?不思議だと言うと、
「ルーマニアにとっては黒海を超えてトルコの次はシリアなんだよ」
ネジャッドが教えてくれました。
シリア人にとってアラブ語のトルコをスキップして、第一外国語はルーマニア語となるから話せるシリア人もままいると。
一方モルドヴァはもともとルーマニアの一部で、分割されているがルーツは同じとのこと。
ルーマニア語は「ローマン」といって、ローマ帝国の名残。
イタリアの西ローマから遷都したコンスタンティヌス、東ローマ帝国コンスタンティノープル、後に西ローマが滅びてビザンツ帝国として存続し、トルコに侵略され町はイスタンブールとなります。その西はブルガリア、ルーマニアは北。
スラブの土地を支配したイタリア人によって、ルーマニアはラテン系カトリックの性質をベースに持つことになり、オルガは黒髪で体毛が濃く(ひげがある)、巻き舌のRを多用した喋り方をします。
そしてソヴィエトに支配され、ロシア語を話します。
ロシア語を話すのに、ロシア語とロシア人を憎んでいます。
11歳まで、学校でロシア語を強要されたから、と言います。
両親とも祖父母とも違う言語を使わされ、モルドヴァ語を使うと厳しい罰則があったそうです。ソ連解体の16歳まで、公用語はロシア語でした。
wikipediaでモルドヴァ公国の歴史の項目を読むと飢餓と侵略のことばかりで、その原因にロシアとソヴィエトが絡んできています。
オルガがロシアを憎む理由は実害に遭ったというより、代々そう教育されてきたからのようです。
ヘルダードイツ語学校には東ヨーロッパ出身の生徒がたくさんいることが分かってきました。旧ソヴィエトか、そのプレッシャーを受けた人たち。
ルーマニア、モルドヴァ、ブルガリア、ベラルーシ、ウクライナ、アルメニア、ポーランド…、みんなロシア語が話せるのに、ロシア人を嫌っているようです。
一方、ロシア人の生徒数も結構多く、他のクラスに固まって多いのでどうも意図的に分けられているようでした。
ロシア語を話すグループが2つあるのですが、交流は完全に分かれているのです。「まあまあ。昔のことは忘れて、仲良くしようよ」
とてもそんな事が言い出せる雰囲気ではなく、僕は互いの言うことを聴くだけ聴くしかありませんでした。
もともと世界史は好きでしたが、こんな体験から民族のルーツと移動、アイデンティティを形づくっているものを調べるようになりました。
大抵、他の国の生徒は自国が大好きで誇りを持っています。そして日本が、日本の文化が大好きだと言います。
僕は複雑な気分でした。ブログの一回目に書いたように、僕は日本文化がダサくて嫌いで、日本の生活がイヤでとにかく出て行きたかったし、実行してきたからです。
僕がドイツ語の聞き取りで難しかったのは数字です。
クラスで聞き取りの授業があるのですが、なかなか聞き取れませんでした。
電話番号などは数字が一続きなので全然聞き取れません。
ドイツ語と英語は数字があまり被っていないので、イメージが更新しなくて余計に混乱しました。
ゼロはヌル、セブンはズィーペンなので007はヌルヌルズィーペン。
定着しないでしょう?
毎朝テレビのニュースにナスダックが株価のテロップを流しているので、それを手当たりしだいに音読したりしてトレーニングしていました。
そういえばドイツは国際的なものもけっこう母国語で通しています。
ゴールはトーア。
ワールドカップはヴェルトマイスターシャフト。
サンタクロースはヴァイナハツマンで、
クリスマスはヴァイナホテン。
これらはどこの国でも共通した呼び名になっているのに、ドイツでは頑なに本国読みなのに何となく意固地な国民性を感じます。
単語構成は日本語と結構似ていて、どれだけでも長くなっていきます。
故井上ひさしさんがドイツ語の長い単語として
Kriegesgefangenenentschaedigungsgezetz(戦争捕虜損害補償法)
を挙げていましたが、日本銀行のガラスに印字されているものも似たようなもので、日本語も漢字表記すると外国人泣かせなのでしょうね。
この辺りは馴染みのあるルール構成だし、他にもドイツ語と日本語の共通点は結構あるので僕は自然と会話よりもテキストが得意になっていきました。
それで、会話がなかなかできない僕がペーパーテストで点が良くて、物怖じせずドイツ語で会話をしている英語圏のキプロスの子らのペーパーテストの点が意外に低いということが起こってきます。
僕は次第にドイツ語の文法が英語より理解しやすい、と思えるようになっていきました。
なんせルールから外れない。秩序立っています。この言語からドイツ人の性質が読み取れそうです。
逆に英語は文章構成が結構自由であったり、不規則変化や慣用表現がイレギュラーに入り交じるので、ドイツ語より奔放に感じて「慣れるしかない世界」のように思えてきます。
日本語とドイツ語のルールがはっきりしているところは、記述したものがベースに言語が保存・発展していったからと聞いたことがあります。
一方、英語は口語で発展していき、使う頻度が高い言葉は判別が瞬時にできるよう不規則変化が多くなった、と聞きました。
ドイツ語はルターの記述がみほん、現代文法のルーツと言われています。日本語は日本書紀や古事記?源氏物語?どの辺がルーツかは分かりませんが、どちらとも言語とは記録されるものであるという前提があるように思います。
そしてドイツ人も日本人も国民性は似通っています。秩序の中で安心・安全を感じ、そこからはみ出ると不安になります。
時間も信号も法律も遵守します。車のない交差点で信号は赤、渡らないのはドイツ人と日本人くらいです。他の国の子らは「あいつらなんで止まってんの?」という感じで不思議そうに見ていました。
ドイツ語を習うことに最初興味が沸かなかったけれど、こんな状況に放り込まれたことでその後の自分に多大な影響を与え、言葉と身体、そしてその人の性質を見ることに繋がっていったように思います。