海外モラトリアムに浸る(読了目安:6分)
日本での生活でモヤモヤしていた僕の気持ちは、なぜかドイツでの孤独な生活で一気に晴れるという、よく分からない現象が起きました。
まず、誰も構おうとしないこと。強制的に加わらなければならないコミュニティがないという状況は、非常に開放的でした。
そして、向こうの言っていることがすぐに分からないことと、自分が最低限の表現しかしなくても生活できてしまうこと。
僕は明らかに「言葉」に左右されて生きてきたのだということを発見しました。
こういったことは、自分がそこに身を置かないと分からないことだと思うので、今どきの子らが、
「海外へ行くことに興味がない」
と自身満々に言うのは実に惜しいな~、と思っています。まあ人のことはいいか。
話は変わって、ドイツの物価は日本の半分ほどでした。
スーパーへ行って買い込んでも2000円くらいで1週間暮らせます。
家賃は1万8千円、食費1万円、バスは2000円くらいでひと月地域内フリー。
生活費は一ヶ月3万円。
あれ?神戸に住んでいたら家賃6万円、食費2万円、電車代は1万円、あと光熱費や通信費もろもろ…えーっと…。
何してるんだろ?日本で何してたんだろ?
ドイツで好きなだけモラトリアムできるんじゃない?
という考えが膨らみ、どうしたらこの生活が維持できるかを打算し始めたのでした。
一般的に海外モラトリアムと言うか分かりませんが、その手の発信で今有名なのがmanablogのマナブさんで、要は海外移住しそちらのインフラを利用しながら引きこもる(やりたいようにやる)という事です。
しかし僕はマナブさんのようにPCで仕事ができるわけでもありません。
僕の狙いは格安生活で、できるだけ高水準な教育(チェロの)を受け続け、誰にもジャマされずに練習する、というものでした。
日本にいると生きているだけでお金がかかるし、そのお金を作るために自分の時間を使わないといけない。
それは日本での「あたりまえ」を一回抜け出さないと気づかないことでした。
20年前はネットの情報交換も今ほど盛んではなく、僕はその可能性を探しに自分の足を使わなければなりませんでした。
そこでノリコさんに日本人留学生のコーヘイさんを紹介してもらい、彼の情報を頼りにドイツに在住するための準備にかかりました。
解決しないといけないのはビザと健康保険、あとそれなりの蓄え。
蓄えはあるものだけなので置いておいて、ビザと健康保険を得るのに最も簡単なのは学生になる、ということでした。
学生になる?
音大生になるのは数年単位の準備が必要だし、目的以上のエネルギーを費やすのは意味がないので却下。
ドイツ語学校。
大体のドイツの大学は留学生を積極的に受け入れているのですが、入学前にドイツ語がある程度できるのか、それを証明する試験をパスする必要があります。
リスト音楽大学に合格したコーヘイさんは、ドイツ語の試験で引っかかったため、別の町の寄宿型のドイツ語学校にまず入学し、試験が通るまで一時期そちらのほうにいた、とのことでした。
それだな。ドイツ語学校。
それも大学の関連機関は格安。なぜなら、ドイツの大学はすべて国立で、国の教育費は無料、大学の授業料は無料(!)なのです。
それを目指す留学生もお金はさほど持っていないのが前提なので、大学準備用のドイツ語学校も格安になるのです。
そして学生になれば格安の学生寮と健康保険、学生ビザが下ります。
いい国だ!
来るまで全然興味なかったのに!
というわけで、ドイツ語学校を探すことになったのです。
ワイマールの滞在はビザなしの3ヶ月が限度なので、長期滞在のために準備のし直しに一旦帰国することにしました。
今思うと何ともアバウトな行動ですね。20代前半、明日の宿もメシも考えず怖いものなしで行動できたのは振り返ってみてもどんな心境だったのか思い出せません。
ただ、未来に対して怖いものが一切なかったことだけは憶えています。
さて、学生寮を引き払う準備をしつつチェロの練習の合間に散歩。
ワイマールの景色はおそらくドイツの田舎の典型的なものでしょう。日本の田舎と全然違います。
まず、山が違う。というか山がない。というか山なのか丘なのか分からない。
日本の田舎は視界にほぼ必ず山があります。どの山も「あの山」と指させるくらいはっきりと平野と区別できます。
一方、ドイツはなだらかな丘がランダムに続き、山には見えない。その丘はみっちりと畑です。何の畑かは分からない。
自然の土地がない。調べてみると中世に開墾し尽くして、自然木などないんだそうです。
目に見える自然は基本、人の手が加えられている。そんな事考えたこともありませんでした。
ということは、ドイツ人にとって、広くはヨーロッパ人にとっての「自然」とは僕らとはかなり違うものかもしれない。
欧米の「ナチュラル」には、もう人の手にかかっている。ナチュラルには土臭さすらないのが前提。
そういったぼんやりした気づきは、やがて僕が後々着手する、人の中の野生を呼び戻すサポート活動と繋がっていったのかもしれません。
その軸は「アレクサンダー・テクニーク」という、妙な名前のものによって形成されてゆくのでした。